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罰ゲーム
松谷に恩田とのことを打ち明けてから、彼は必ず塚原と一緒にご飯を食べることにしたようで、塚原が食堂にいると向かいに座り、いないときには呼ばれるようになった。初めはわずらわしく思っていた塚原も、次第に態度を軟化させていった。確かに一人でいると心はいつも同じ方向にしか向かず、それは悲しみや苦しみを呼び起こすものでしかない。昔からやってきた、ひたすら走ってどうにもならない感情を吹き飛ばすこと……それと同じくらい、誰かとどうでもいい話をすることは、心の平衡を保つのには確かに有効だったのだ。 食堂で夕飯を食べていた塚原は、向かいに座る彼の名前を久しぶりに呼んだ。 「……松谷」 「うん?」 「そろそろ決めてくんない」 「何」 「罰ゲーム」 「ああ、罰ゲーム」 すっかり忘れていたように、大げさに声を高くする。塚原はその表情を見て顔をしかめた。 「何でもいいからさっさと決めろよ」 数日前にみじめにも松谷に泣きついてしまったことが、塚原の中ではあり得ない恥として刻まれている。その上こうして何も訊かずにご飯に付き合ってくれていることにありがたいと思いながらも、やっぱりどこかで「何だ余計なことを」という気持ちがぬぐえないのは確かだった。他のクラスメイトなどはともかく、塚原に対しては今まで「優しさ」とか「思いやり」とかいうものをほとんど見せたことがない彼である。罰ゲームの話をあれ以来してこないのも、腫れ物を扱うように接されているようで落ち着かない。 泣きついてしまったことが借りなら、返すまでだ。松谷にこんな風にいたわってもらうような態度を取られるのは好きじゃない。 松谷との間で感じているお互いのプラスとマイナスを、できるだけ早く清算したいと思う塚原なのだった。今は確かに恩田のことで落ち込んでおり、それを彼が支えてくれているのはわかっていた。だからそれにはもちろん感謝して、何かの形で返すつもりだ。けれどそもそも、あの松谷が落ち込んだ自分を支えようとすること自体が塚原には不思議に思える。いや、もっと率直に言えば不気味にも思えるのだ。その点でも塚原は早く自分と松谷の今の状況を清算したかった。 「何にすっかなあ」 「今週中に決めろ」 「……えっらそうに」 そう。こういう遠慮のないやりとりが本来の二人のすべてのはずなのだ。 「お疲れさーん」 そこへいつもの明るい声で、夕飯を載せたトレーを持った甲斐が隣にやってきた。塚原ははっとして顔を上げた。彼と言葉を交わすのも久しぶりだった。 「……甲斐くん」 「あー。くん付けはやめようってこないだ話したじゃん」 「あ、そっか……」 答えながら甲斐の表情を探るけれど、特に変わった様子は見受けられない。塚原が告白したことを彼は既に恩田から聞いていると思っていたのだが、違ったのだろうか。 「あの、……俺、その……」 「ん?」 だとすれば少なくとも自分が恩田と顔を合わせられなくなった事実くらいは今知らせておかなくてはいけない。これからは恩田と三人でご飯を食べることも、勉強会をすることもできなくなったのだから。 けれど口を開いても、何と言えばいいのか言葉が出てこない。ただただ戸惑った顔を甲斐に見せるだけになった。そんな様子の塚原に、甲斐はそっと近寄って耳打ちをした。 ――松谷は知ってるの。 その一言で、塚原はすべてを理解した。すぐに甲斐に向き直り、うなずく。 「……辛かったね」 甲斐は目を合わせてそう言い、ごく自然な動作で塚原の頭を撫でた。彼は塚原が恩田に告白したことを既に知っていたけれど、あえていつもの態度で声をかけたのだった。松谷がそのことを知らなければ不審に思うだろうからと気を回したのである。頭を撫でる手の心地良さも手伝って、塚原はさっきまで張りつめていた自分の心が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。 「ごめん、甲斐」 「どうして謝るんだよ」頭を撫でる手が少し強くなった。「真剣な気持ちがあって、それを伝えて。健全なやり方じゃん。なんにも悪いことない」 慰めるでもなく、塚原の行動をただ認めるその言葉が、心を包み込むようだった。塚原は黙ってうなずいた。 夕飯を食べ終わって部屋に戻るあいだ、三人は並んで廊下を歩いていた。甲斐が面白そうに訊く。 「罰ゲーム?」 「そう。何かいいのない? こいつが五回寝坊したらっていうルールだったんだけど、何するか決めてなくて。つーか決める前にやっちゃったから」 塚原が横目で松谷を睨む。甲斐はくすくす笑った。 「そっか、そうやってちゃんと目標決めてやってたんだね」 「こいつ腹立つのがさ、罰ゲームで欲しいもん買ってやるとかいう話になっても、欲しいもんないとか言うんだよ」塚原が唇を尖らせて言う。「かっこつけちゃって」 「本当にないんだよな」 「嘘つけ」 不毛な言い合いになりそうなのを察して、甲斐は口を挟んだ。 「まあまあ。それで、罰ゲームって何でもいいの?」 「うん。一応ペナルティになるやつなら」 松谷の言葉に塚原は鼻にしわを寄せて無言の抗議をする。甲斐は視線を一周させて考えを巡らせた後、大きく手を挙げた。 「じゃあさ、俺いっこ提案していい? 行きたいところあるんだけど!」 数日後。部活を終えた塚原と松谷、それに甲斐は三人揃って学校にほど近い商店街のとある飲食店にやってきていた。 「陳餃子」である。 海の向こう、四千年の歴史を誇るかの国で料理人をやっていた陳氏が、三十年ほど前に来日しこの街で始めた中華料理店で、看板メニューは店名の通り、種類も豊富な餃子料理だ。決してお洒落とは言えないがそれなりに清潔な店内には五つほどのテーブルがあり、カウンターは十席。一番の売りはその味と安さで、塚原たちが通う高校の生徒も多く来店するという。ちなみに数年前までは学生割引があったらしいが、近年の景気の悪化によってか、今はなくなっているとのことだ。 甲斐が提案したのは、この店の特別メニューだった。 「いらっしゃいませー」 店主陳さん以下、店員たちの声が響き渡る。甲斐は慣れた様子で空いているテーブル席を塚原と松谷の二人に示すと、自分はセルフサービスのウォーターサーバーへ行き、三人分のお冷やを取ってきた。 「俺ここの餃子定食大好きでさー」 夕食の時間のど真ん中である今、席はほとんど埋まっていて、客と店員それぞれの声が騒がしい。そんな店の喧噪に不釣り合いな、緊張した面持ちで甲斐からお冷やのグラスを受け取った二人は、壁に貼られた一際大きなポスターを揃って見つめた。 『陳餃子スペシャルチャレンジ! 餃子十人前、五十分以内に完食できたらお代はいただきません!』 と、そこにはきれいな筆字で書かれていた。お皿いっぱいの餃子のイメージ写真の下には『※達成できなかった場合は六千六百円頂戴いたします』とも。 おお、とか、うお、とかなんとか二人が呻くような感嘆の声を上げているあいだに甲斐は店員を呼んで、スペシャルチャレンジお願いします、と元気よく注文した。 「チャレンジですねー。餃子は陳餃子とレッド餃子どっちでー」 当然ながら店員はこれといった感動もなく注文を受けた後、顔を上げ「店長ー! チャレンジいただきましたー!」と店の中に響き渡る大声で叫んだ。続いて甲斐が「陳餃子で」と言うと、「チャレンジ陳餃子でーす!」と再び叫んだ。 「あ、二人で挑戦してもいいですか」 「制限時間が二十五分になりますけど」 「了解です!」 うれしそうに笑いかけてくる甲斐に、塚原はとうとう覚悟を決めた表情でうなずいた。これが、罰ゲームだった。 「陳餃子の十人前チャレンジ、達成できなかったら塚原が払うってのはどう? もちろん塚原も参加して。達成できればタダだから、払わなくていいし。もし達成できなくてお金払ったときでも、食べきれなかった餃子は包んでくれるらしいから、まるきり損ってわけでもないし。俺一回挑戦してみたかったんだよねー」 昨日、瞳をきらきらと輝かせながら甲斐が話した提案に、塚原と松谷は揃って真剣な顔で腕組みをし考えを巡らせた。餃子十人前五十分。二人でやるなら二十五分だという。三人以上での挑戦はできない。 「……ってことは、一人当たり五人前を二十五分ってことになるわけだ」 「甲斐、一人前って何個?」塚原がすかさず訊く。 「八個。五人前なら四十個って計算になるね」 いつの間にか三人は廊下で頭を寄せ合っていた。 餃子四十個を二十五分で完食する。塚原が思うに、達成できるかできないか、すぐには想像しにくい条件である。部活帰りで死ぬほど空腹の状態で挑むとして、数字だけ聞く分にはとてつもなく衝撃的な数とは思えない気がするけれど……達成できなければ六千六百円の非常に痛い出費である。 「餃子の大きさにもよるか」 「うーんまあ、大きい方ではあるね」 甲斐の笑顔がちょっぴり苦いものになった。 「さらに餃子は二種類から選べる。普通のやつと、あんに唐辛子が入ったレッド餃子。レッド餃子を選んだ場合は、制限時間がプラス十分になるんだ」 「レッドはないな」 人差し指を立てて説明する甲斐に、松谷は冷静に返した。 「プラス十分くらいじゃ無理だ」 「まあね」甲斐も当然の顔でうなずく。「レッドはさすがに達成者はいないらしい。完食したらその栄誉は素晴らしいものかもしれないけど、素人の俺たちは挑戦するだけ損だ」 そうして二十分に及ぶ協議が続いた後、結果として提案は採用された。 「ていうかさ、罰ゲームなんだし。やっぱり多少は過酷さが必要じゃない?」 いつもの笑顔と優しさをそのままに、かなり辛辣な言葉で締めくくった甲斐に、塚原はぐうの音も出なかった。 「お待たせしましたースペシャルチャレンジ陳餃子ですー」 店員の声とともに一際香ばしい匂いが漂ってきたかと思うと、テーブルの真ん中へどん、と大皿が音を立てて置かれた。そこには八十個の餃子が一人前ずつ羽をつけてぐるりと隙間なく盛られている。その隣に松谷が注文した青椒肉絲(チンジャオロース)・天津飯セットも運ばれたけれど、まるでおまけにしか見えない。 「お箸と酢醤油の準備はいいですかー?」 店員の背後からぬっと、店長である陳さんが顔を出して尋ねてきた。削ぎ落とされた彫刻のような細い顔に、深いしわがいくつも刻まれている。手にはキッチンタイマーが握られていた。スペシャルチャレンジの開始は店長自ら取り仕切るらしい。慌てて二人は言われた通り準備を整える。 「では……三、二、一、始め!」 甲斐と塚原はお互いに一瞬だけ目配せをし、餃子の大皿に取りかかった。 四十分後。 「ありがとうございましたー」 店員の元気な声に見送られ、三人は店を出た。 ……食べきれなかった餃子たちの包みを手に。 「陳餃子、甘くなかった……」 塚原が夜空を仰いでつぶやく。隣でさすがの甲斐も苦しげな笑顔で応じた。 「やっぱいくら美味しいものでも、度を過ぎれば凶器だよねえ」 健闘したとはいえ、スペシャルチャレンジの結果は悔しさすら感じないものとなった。 開始と同時に塚原も甲斐も餃子を平らげようと箸を伸ばしたのだけれど、最初はその熱さにやられてしまった。焼きたてを提供するのは飲食店では重要なことであるから当然ではあった。熱々の餃子を口に入れ、噛むと肉汁が広がって、やけどしそうになりながらハフハフと食べる……それが理想の餃子なのだとわかってはいたし、それこそが一番美味しい食べ方なのだと知っていたけれど、なにしろ熱過ぎた。そんなわけで二人とも思うようにスタートダッシュを決められなかったのだった。お冷やを持ってくる役目を負った松谷は、テーブルとウォーターサーバーを何往復かした後、店長に言われてやかんを貸してもらったほどである。 そして第二の難点は、陳餃子の大きさだった。 普通の餃子より一回り大きいくらい。メニューに載っていた餃子定食の写真でもそれほど違和感を感じなかったし、大きめだと甲斐から聞いていた塚原だったから、大皿に乗った餃子たちを見てもそれほど驚きはしなかった。……けれど、それが甘かったのである。一回り大きいだけ。けれど、食べ進めていくうちにその少しだけという大きさがじわじわと積み重なり、胃を圧迫していった。十五個目を超えれば、口に入れるとすぐに感覚で「大きい」とはっきり感じるようになる。すると胃だけでなく、モチベーションまでも圧迫されたのである。 極めつけはやはり制限時間だった。五人前を二十五分で食べるのであれば、平均して一人前は五分で食べ終わらなければならない。スタートダッシュさえ決められなかった二人が、ゴールまでの間にこの平均ペースへ乗れるわけがなかった。 塚原は二十七個、甲斐は三十個。餃子の熱さと大きさと、苦しさを増す胃。制限時間。終了を告げるキッチンタイマーのけたたましい音が、いっそ清々しいほどだった。 「罰ゲームとしての結果はクリアしたけどな」 松谷は肩をすくめて言った。青椒肉絲と天津飯を腹に収めてのんびり二人の闘いを傍観するはずが、彼でさえもお冷や係として時間内は動き続けたのである。塚原と甲斐のチャレンジが終わった後、ようやく自分の食事を再開させたときには、料理はほとんど冷めかけていた。 「達成できなかったのに、何かすっげーやりきった気分」 餃子の包みを片手に、塚原は大きく伸びをした。すぐに胃の重さが腹を引っ張ってくる。 「まあ、この胃のせいだよね」 くすくすと甲斐が笑う。つられて塚原も笑い声をあげた。二つの笑い声が冷たい風に乗って商店街の街灯の傍を通り抜けていく。数歩前を歩く松谷がふと振り返って、彼と目が合ってから、塚原は久しぶりに自分が声をあげて笑ったことに気づいた。何とも言えず、自分の心の動きもなんだかわからないままに、塚原は彼にも笑った。笑って、首を傾けた。 「甲斐、ほんとにありがとう。半分出してもらって」 寮へ帰って、ちょうど昨日協議をした廊下で塚原は改めて礼を言った。会計で甲斐は「俺も残りの餃子持って帰りたいから」と言ってお代の半額、三千三百円を出してくれたのだ。塚原がいくら言ってもそれを引っ込めなかった。 「俺はずっとやってみたかった陳餃子チャレンジを半額でできてラッキー。塚原は罰ゲームの罰金が半額になってラッキー。それでいいじゃん」 そこまで言われてしまうと塚原も引き下がるしかなかった。繰り返し頭を下げ、礼を言った。 「今度は普通に餃子定食食べに行こうね」 「うん」 おやすみ、と二人に挨拶して甲斐は自分の部屋へ戻っていった。松谷も「明日な」と言ってすぐに廊下を歩き出す。 「松谷」 その後ろ姿に塚原は慌てて声をかけた。振り向いた彼の元へ駆け寄り、ひとつ咳払いをして言った。 「最近、態度悪くてごめん。お前に迷惑かけた」 松谷は意外そうに目を大きくして塚原を見つめた。その反応が何よりもはっきりと、塚原のこんな殊勝な態度など今まであり得なかったことを物語っている。塚原自身でさえ、こうやって改まって彼に謝るのはいたたまれない思いがするのだ。けれどだからといって、素通りしていいものではなかった。 「……あと、色々、ありがとう」 本当は「いつかお前に何かあったときは、俺も力になるから」とか言いたかった。それが数日前に考えた借りを返すということでもあり、自分を支えてくれた松谷への正直な気持ちだった。けれど、口にはできなかった。声に出した途端、その言葉は中身が抜け落ちて嘘くさいものになってしまうような、そんな気がしたのだ。 いつか本当に松谷が困ったとき、つらいときに支えてやろう。口には出さず、心のうちでそう考えた。 俺は馬鹿かもしれないけれど、恩知らずじゃない。松谷が多少なりとも俺のことを思って行動してくれたことはわかっている。そして、それを感謝して自分を省みることくらいはできる。俺だってそれくらいの度量は持っているはずだ。 そうやって気恥ずかしい謝罪と感謝の言葉を頭の中で必死に納得させ、冗談でごまかしたい気持ちをなんとか抑える。けれど、さすがに目を合わせることはできなかった。 松谷は驚きから覚めると、そんな塚原の言葉を茶化すでもなく、ごく自然な態度で応じた。 「うん。まあ、許す」 なんだその偉そうな言い方は、と文句をつけたくなるがこらえた。 「けど、感謝してもらう筋合いはねえよ。俺は俺の都合で行動してるんだし」 そう言ってすぐにまた歩き出す。 「都合?」 思ってもみない言葉だった。塚原は少し彼を追いかけた。 「都合って何」 「俺の都合」振り向きもせず松谷は答える。 「お前の都合って何だよ」 「俺の勝手ってことだよ」 手を振ってあしらわれる。 要するに、気に病む必要はないということなのか。 かっこつけちゃって。 素っ気ない松谷らしいその態度に、ああそう、と塚原も足を止めた。 (つづく)
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