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日の光
佐野とは、絶対に誰にも見られない場所で会いたかった。恩田は色々悩んだ末、駅を境に学校とは反対側にある、ビジネス街のカフェを指定した。ビルの二階にあり、窓際の席からは通りが見下ろせる。ここはメニューの価格帯がファストフード店などの倍近くするところで、高校生が気軽に入るような店ではない。一度佐野と二人で入ったことのあるところだった。 食堂で別れ際、話があるんです、と意を決して言った恩田に、佐野はいつものこだわりのない微笑で応じた。 「いいよ。今から? ラウンジ行く?」 「いえ、できれば週末とか」 そう言いながら、恩田は自分が今どんな顔をしているだろうと気が気ではなかった。佐野の態度がいつもの変わらないだけに、なおさら。 「ああ、土曜なら髪切る予約入れてるから、午後からならいいよ」 「じゃあ、一時くらいは」 「大丈夫」 場所はまたメールで伝えると告げて、恩田は頭を下げた。そのまま部屋へ戻ろうとしたところで、佐野に肩を掴まれた。 「恩田」 「……はい」 「大丈夫か。お前なんて顔してんだよ」 「なんでもないです」 罪悪感と自己嫌悪で押し潰されそうだった。けれどもう決めたことだ。黙り込んでそれ以上口にしない恩田に、佐野は肩をすくめて手を離した。 約束の一時より早めに店へ着いたけれど、佐野はもう店内に座っていた。窓際の奥の席で、カップに口をつけている。フロア全体の席の半分ほどは客がいて、小さくジャズの音楽が流れている。きっと佐野には店に向かう恩田の姿が窓からよく見えただろう。彼に声をかけ、店員にはコーヒーを注文して、向かいの席に着く。 「すいません、待たせて」 「いや、予定より早く終わったからさ。先に来た」 佐野は笑ってそう言った。髪は少し短く整えられ、全体的にすっきりとした印象が増した気がした。私服姿も何度も見ているけれど、いつも洗練されている。とても一歳年上とは思えない。 しばらく、以前この店に来たときのことなど話すうちに、コーヒーが運ばれてきた。恩田がとりあえず一口すすった後、佐野が唐突に声を出した。 「……別れ話?」 「え、」 仰天した。恩田の置いたカップが高い音を立てる。目を見開いたまま、何も言えずにただ佐野の顔を凝視していると、頬杖をついた彼は口許を緩めた。 「お前の顔に書いてあるんだもん」 血の気が引いた。両手を膝の上で握ったまま、うつむいてしまう。 「……俺……」 「……やっぱ、そっか」 はっきりわかるほど佐野の声が小さくなった。恩田が顔を上げると、彼はソファの背にもたれて、窓の外へ目をやっていた。そのまま、口を閉ざす。 しばらく、二人とも一言も話さなかった。恩田はカップからのぼるコーヒーの湯気を見つめていた。佐野は窓の外を見たまま、動かない。今日は珍しく、灰色の雲の隙間からうっすらと青空がのぞいていた。弱々しい日の光に、通りを歩く人々の影は頼りなく薄い。それを眺める佐野の目が少し潤んでいるのが見えて、その事実が恩田の胸に突き刺さった。 「……先輩、すみません」 やがて、恩田はそう言った。 「俺と、別れてほしいんです」 佐野は窓の外を見たまま黙っていた。 「俺から付き合ってほしいって言ったくせに、勝手なこと言って本当にすみません。俺、本当に馬鹿で……もう、先輩の恋人でいる資格がないんです」 「……資格って何だよ」 「……全部、俺が悪いんです」 「資格ってどういう意味だって訊いてんの」 鋭い口調ではなく、むしろ平坦で穏やかな声だった。テーブルを挟んで顔をのぞき込まれる。恩田は息を吐き出して告げた。 「……他に好きな人ができたんです」 「…………」 「先輩のことが嫌いになったとかそういうことじゃなくて、」 「俺よりそいつが好きになったってことか」 「…………」 はっきりと言われ、胸が痛かった。恩田はうなずいた。佐野が大きなため息をついて再びソファにもたれる。 「……先輩、」 「その先輩、ってやつ」 恩田の呼びかけに、佐野は苦笑いを浮かべた。 「俺と寝たときも、結局お前は最後まで俺の名前を呼ばなかったもんな」 どきりとした。確かに、そうだった。けれどそれは佐野への想いが薄いからではなくて、その逆だ。恩田にとって二年間想い続けた憧れの先輩の名前は簡単に口にできるものではなかったのだ。 「違います、それは」 「いや、いい。なんとなくわかってたよ。付き合い出したときからちょっとずつお前が変わってくの」 「名前を呼ばなかったんじゃなくて、呼べなかったんです。先輩のことが本当に好きだったから……!」 必死に訴える。自分の気持ちを誤解してほしくない、本当に好きだから告白したのだとわかってほしいと強く思う恩田だったけれど、頭の隅には、それは自己弁護につながるだけじゃないかと冷たく突き放す自分がいる。 「……そっか。まあ、じゃあそのことはわかった」 微かに笑って佐野はそう言った。カップを取って口をつける。 「…………」 「心変わりならしょうがない。……けど二ヶ月って。お前のことけっこう誠実なやつだと思ってたんだけどねえ」口調をがらりと変えて佐野は言った。 「……あの」 「まあ、そういうお前だから、浮気が本気みたいなことになったのかな」 「……本当に、すみませんでした」 潤んでいたはずの佐野の目は元に戻っており、からかうような表情さえ浮かんでいた。 「好きになったっての、『つかはら』ってやつ?」 「え」 驚いて恩田は相手を見つめた。佐野は肩をすくめる。 「名前呼んでたじゃん。俺のベッドで」 「え……」 一瞬ですべての音が辺りから消え去った。身体が硬直して、しばらく声が出なかった。 「……き……こえてたんですか」 「たまたまね」 なんということだ。天を仰ぐ。あのとき名前を呼び間違ったことを聞かれていたのだとすれば、佐野は何週間も、そのことを飲み込んで恩田と過ごしていたということになる。自分はどんな態度で何を話しただろう。思い返すほどにぞっとした。 「本当に……俺、最低だ」 頭を抱えた恩田に、くすくすと佐野の笑い声がかかる。 「最低だねえ。全然ダメじゃん。自分の気持ちもわかってない」 「……はい」 「そんなんでよく俺に告白したよねえ」 「すみません、俺、」 「もういいよ。話はわかったから、帰れ」 また頭を下げようとした恩田を、佐野が制した。笑みが一瞬で消え、何の表情も浮かんでいない静かな瞳だけが残る。 「…………」 恩田の視線に気がついて、彼は肩をすくめた。 「……お前の言うこと疑ったりしないからさ」 「……すみませんでした」 半分以上残っていたコーヒーを一息に飲み干し、席を立って恩田は深く頭を下げた。代金をテーブルに置き、そのまま振り返らずに店を出て行く。最後に見た佐野の静かな……諦めの色をたたえた瞳が強く恩田の心を揺さぶった。 本当に、俺は―― 自己嫌悪の汚い言葉が十も二十も浮かんでは増殖していく。俺は馬鹿だ。最低だ。何もかも中途半端。ひとりよがりのエゴばかり。そうして気づくのが遅すぎる。佐野も、塚原も、甲斐や松谷も振り回して、迷惑をかけて。澄ました顔で幼い子供のような言い訳を繰り返して自分勝手に行動した。くだらない。最低男。 ……本当にこれで、よかったのか。 色々な言葉が一巡した頃には、恩田は寮の玄関のドアを開けていた。スリッパに履き替える彼の後ろで、閉じかけたドアがまた開く。続けて誰かが帰ってきたらしい。足音が背後を通り過ぎようとする。 「……おう、恩田」 ぎこちない調子でかけられる挨拶。聞き慣れた声。恩田にはその声の主がわかっていた。振り向くとそれはやはり塚原だった。頭にはまだ包帯が巻かれており、部活には行っていないらしく私服姿だ。病院か、何か買い物にでも行ってきた帰りだろうか。頬の傷はかさぶたになってまだ残っている。こちらにかすかに笑いかけたけれど、瞳の色はすぐに伏せられてわからなくなった。その一瞬。 目が合ったほんの一瞬。 ズキ、と鋭く胸が痛んだ。 たった今自由になって放たれた確かな感情の流れが、心臓から全身に向けて巡っていくのが恩田にはわかった。 今まで気づかないふりをしていたもの。もどかしく押しとどめていた欲望と切なさで甘くしびれる感情の流れ。どんなに自分に文句を言ったところで、これを消すことはできない。 塚原が好きだ。 「……おかえり、塚原」 身体の中で渦巻く感情に酔いながら恩田はそれだけを返した。塚原は小さくうなずくと、すぐにスリッパに履き替えて自分の部屋へ駆けていく。その足音が他の物音にまぎれて判別がつかなくなるまで、恩田はその場に立っていた。 夕暮れのオレンジ色の光が斜めに降り注ぐ校舎内。週の初め、授業が終わって一時間もすれば、部活生はそれぞれ活動を始めており、帰宅部の生徒もほとんどが校門をくぐって家路についている。廊下も、各教室も、遠く部活生の声を微かに反響する以外は静まり返り、日の光に照らされた塵がきらきらと舞っていた。 その中で恩田は一人、教室の窓際の席に座ってグラウンドを眺めていた。何人かのクラスメイトから帰らないのかと聞かれたのにただ首を振って答え、暖かみのない日の光を受けながら。 先週までの自分なら、三十分も前に二年の佐野の教室へ向かっていたはずだ。 「恩田、まだいたの」 声が届いた。開けっ放しの教室のドアから甲斐が顔を出していた。大きめのファイルを抱えている。 「お前こそ」 「月イチの衛生委員会があったから。二年、もう終わってたみたいだけど?」 言いながら教室に入ってくる。 「何か居残り?」 「……いや、もういいんだ」 きょとんとこちらを見つめる甲斐に、恩田は静かに、佐野と別れたことについて打ち明けた。話を訊いた甲斐は、初め少し驚いたようだった。 「……別れたの?」 「うん」 「先輩、びっくりしてたでしょ」 そう言う甲斐が、目を丸くして恩田を見ている。彼は恩田の前の席に腰を下ろしていた。雲の隙間から差し込む夕日が少しだけ明るい。 「いや、なんとなくわかってたみたい。向こうから別れ話かって言われた」 「……そっか」 そう言った後、甲斐は手元のファイルで恩田の頭を軽く叩いた。 「つーかさ、先輩にもわかってたって、それまずかったんじゃん」 「ほんと俺、改めて自分が最低だって思ったよ」 大きくため息をついて恩田は机に突っ伏した。「お前に何言われても反論できない。俺だって自分がこんなに最低だとは思わなかったよ」 一番の本音を甲斐にもらしてしまった。自分で自分に失望したこと。とはいえさすがに佐野と寝た翌朝、名前を間違ったことは言えなかった。 「……まあ、気持ちの動きはどうしようもないよ。自分に嘘をついて誰かを傷つけることの方が問題なんだからさ」 「お前にも色々迷惑かけて、悪かった」 「どういたしまして」 顔を上げて恩田がそう言うと、甲斐はいたずらっぽく笑ってうなずいた。 「……そうすると、恩田の気持ちは、」 「うん」 寮の玄関で会ったときに見た塚原の顔を思い出していた。 「塚原が好きだ。……今は、先輩より」 深く息をついて、一つ一つ確かめるように恩田は言った。 「いつからかはわからない。けど……もう嫌なんだ。あいつに対して自分の気持ちを我慢したくない。塚原があんな目に遭ったからかもしれないけど、それがわかってても、やっぱり気持ちは変わらない」 ぽんぽん、と甲斐が恩田の肩を軽く叩く。 「まあ、お前の中でわかったんならいいよ。で、いつ言うの?」 うれしそうに身を乗り出して訊いてくる。恩田は苦笑した。 「お前、本当に塚原のこと気に入ってるんだな」 「気に入ってるっていうか、好きだし、ファンだし。俺は何だって塚原の味方だもん」 ふふん、とあごを上げる。そっか、と恩田は笑いながら肩をすくめた。 「さすがにすぐは無理だよ。あいつ、まだ怪我も治ってないし」 頬杖をついて窓の外を見やる。様々な生徒が部活動を行っている中、グラウンドの中央、陸上部が走るトラックの隅に立っている塚原はすぐ見つけられた。首からストップウォッチを下げたウインドブレーカー姿で、時折目の前を走る部員に数歩追いかけるようにして声をかけ、手を叩く。その後元の位置に戻り、グラウンドを見回す。これまで恩田が見たことがない、静かで、真剣で、集中している表情だった。 「それに、俺も……もうちょっと頭冷やしてから……」 そんな塚原に目を向けたまま、恩田は言う。 はやる気持ちはある。現金過ぎるほどに今、気持ちは塚原へ傾いている。けれど、このまま彼に気持ちを伝えて、後悔しないのかをきちんと考える必要があると思っていた。でなければ、また同じことの繰り返しだ。 それにまだ、胸のうちには自己嫌悪の気持ちが渦巻いている。佐野に別れ話をして了承を得たといっても、すぐに告白する気にはなれなかった。これまで何度も自分勝手な振る舞いを重ねてしまっているのだから。 ストップウォッチを手に取った塚原の元へ上級生らしき生徒が駆け寄って、何か話をしている。塚原は真剣な顔でうなずき、脚を伸ばすような動きをし始める。相手の生徒もうなずき、同じ動きをする。何かの指導を受けているのだろうか。 塚原、走りたいのかな。退屈してるのかな。 今、彼の元へ行ってその表情を間近で見てみたい。息づかいを感じてみたい。 「……そうだね」 甲斐もうなずいた。 (つづく)
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